再現性を批判する
昨日やれていることが、今日もやれるという自信。ただそれがほしいだけではないか。
残念ながら、再現性、なんて、ペテンである。人間は、変わる。あの日やれたことが、今日もできることもあれば、できないこともある。
養老孟子がいうように、変わらないのは、情報だけである。なにかを再現するための、情報は、たしかに、残せるかもしれない。だが、その情報を実行する人間も、ひいては機械も、常に変わる存在である。
その日なにを食べたか、誰と話したか、どのくらい寝たか、それで一日、がらりと人は変わってしまう。
天気、気温、温度などで、電気の流れは変わる。そうすれば、機械の動きも誤差が生まれてしまう。
変わらないために、あの日の成功をまた実行するために、再現性を重んじる。どのような条件でそれが為されたのか、よく分析した上で、それと条件が揃った時に、再現性を発揮する。
なるべく誤差を減らし、質のいいプレイを、何度もくり返す、その再現性こそ、プロフェッショナル、ということになっている。
しかし、よくよく突き詰めれば、再現して見せているだけで、過去のプレイと同じものを再現しているわけではない。毎日、変わりゆく世界で、変わりゆく条件下で、ひとりの人間が、神経を研ぎ澄まして、同じ結果を出そうと、闘っているだけだ。
大谷翔平の本塁打ひとつとっても、全打席として同じものはなく、ピッチャーとの闘いに次ぐ闘いの結果、本塁打に至るだけである。
再現性は、情報として書き起こしても、その時を生きる自分には、ただのまじないでしかない。再現性を意識しすぎると、まるで、野生の勘と変わりゆく自分と相手を忘れた、耳ざわりのいい言葉に聞こえる。
たしかに、成功とそれにまつわる条件を記録することは、再現性を高めるかもしれない。だが、その記録をもとに、同じような結果を生み出せるかは、その時の自分次第であって、「再現性を高めます」と言ったって何にもならない。その時の自分がどういう状態か誰も知らない。
この時はこうする、あの時はああする、その、いくつもの経験の引き出しを使って、あとは、野生の勘、それで、目の前のものと、自信をもって、対峙して、コンスタントに、同じ結果が出せる、かもしれないし、出せない、かもしれない。
そのくらい気楽にかまえて、数を打って、気を研ぎ澄まして、あるいは、変わる自分を受け入れて、再現しなくてもいいと割り切って、自由な想像の海に泳ぎだすことも、悪くない。
再現しなくてもいいと割り切ることと、再現性を高めることと、両輪を回しながら、過ぎゆく今を、体感することで、見えてくる世界もある。
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サムネは、アメリカワシントン州のマクドナルド湖(著者撮影)